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投稿者: hakko-way
ライブ中
ライブ
ニワトリの
本日、中川五郎さんのライブあります。八町坂の1周年感謝ライブです。
中川五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中川 五郎(なかがわ ごろう、1949年7月25日 – )は、1960年代後半から活躍するフォークシンガー、訳詞家、音楽評論家、小説家、エッセイスト、翻訳家。
略歴
1960年代後半に、関西を中心に起きたフォークミュージックのムーブメント「関西フォーク」の代表的人物の一人。 京都などで行われた「フォークキャンプ」などでメッセージ色の強い曲を歌い始める。 関西「フォークの父」高石ともや、「フォークの神様」岡林信康、東京から京都に来た高田渡に続く高石音楽事務所のプロテストソング歌手の末っ子的存在だった。
1967年3月、当時、大阪府立寝屋川高等学校の3年生であった中川はベトナム反戦講演会に参加。ゲストで来ていた高石ともやの歌に衝撃を受け、自身も歌を作っていると高石に話しかけたのが最初の出会いである。以来、中川は高石に連れられて様々な会を一緒にまわるようになったがきっかけとなり、フォークシンガーへと進んでいく。
中川五郎が広く知られるきっかけの一つに高石のヒット曲”受験生ブルース”がある。この曲は、中川の詞に高石が人懐っこいコミカルな曲をつけ有名になるが、中川の原曲は、ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に中川がオリジナルの詞をつけたものだった。 小室等のグループ六文銭とのカップリングアルバム『六文銭・中川五郎』でURCレコードからデビューする。 続いて『終り はじまる』をリリース。
1970年に「歌手廃業」を宣言し、URCの機関紙「フォークリポート」の編集者となるが、その最初の号「冬の号」がわいせつ容疑で押収され、中川 はわいせつ文書販売同所持事件の被告人となり、裁判は7年続く。その内容は中川の著書「裁判長殿、愛って何?」に詳しく書かれている。
この「フォークリポートわいせつ裁判」で1970年代前半を棒に振り、1976年妻・青木ともことの生活や愛猫の死などを描いた傑作『25年目のおっぱい』をリリース。 だが、1978年『また恋をしてしまったぼく』(ベルウッド・レコード)を最後にアルバムリリースが四半世紀途絶えることとなる。
その後は、80年代には雑誌『BRUTUS』の編集を担当。また、音楽評論家、ロックの訳詩家、チャールズ・ブコウスキー等の先鋭的な文学作品の翻訳家として知られるようになる。
2004年に、待望の新作「ぼくが死んでこの世を去る日」がoff noteからリリースされた。なお、デビュー当時から、2004年にいたるまで地道にライヴ活動は続けていた。
また、フォークキャンプ、中津川フォークジャンボリー、春一番コンサート、ホーボーズコンサートなど多くのイヴェントの音源が残されており、、彼の活動の一端を窺い知ることができる。 彼はまた、「田舎五郎と魚」、「ヴァギナ・ファック」などのグループも、編成していた。
中川は他に、洋楽の訳詞や、解説の執筆もしている。キング・クリムゾンの”レッド”など。
エピソード
中川五郎とジ・オックスの岡田史郎とは中学時代の同級生であり、二人は史朗、五郎として有名人であった。
沢知恵がアルバム「いいうたいろいろ2」で、「三十才の子供」、アルバム「わたしが一番きれいだったとき」で「自分の感受性くらい」をカバーしている。
ディスコグラフィ
- 中川五郎・六文銭(1969、URC)
- 終り はじまる(1969、URC)
- 25年目のおっぱい(1976、フィリップス)
- また恋をしてしまったぼく(1978、ベルウッド)
- ぼくが死んでこの世を去る日(2004、off note)
- そしてぼくはひとりになる(2006、シールズ・レコード)
著書
小説
- 愛しすぎずにいられない マガジンハウス, 1992.10
- 渋谷公園通り KSS出版,1999.2
- ロメオ塾 リトルモア,1999.5
エッセイ集
- 『フォークは未来をひらく』高石友也,岡林信康,中川五郎 社会新報,1969
- 『裁判長殿、愛って何?』晶文社,1982.1
- 『未来への記憶 中川五郎的音楽生活』話の特集, 1986.4.)
- 『友人のような音楽』中川五郎,永井宏 アスペクト,2001.8
翻訳
- 『ハワイアン・スラック・キイ・ギター』ケオラ・ビーマー ミュージックセールス, 1978.2
- 『ロック・クオーツ』ジョナソン・グリーン クイック・フォックス社,1978.5
- 『クラレンス・ホワイトのギター』ラス・バレンバー ミュージックセールス, 1978.12.)
- 『ポリスクロニクルズ』フィリップ・カミン シンコー・ミュージック, 1984.6.)
- 『ブルース・スプリングスティーン写真集』マーティ・モンロー シンコー・ミュージック, 1984.12
- 『ホールアンドオーツ詩集』 シンコー・ミュージック,1986.1
- 『U2詩集 ヨシュア・トゥリー』シンコー・ミュージック,1988.5
- 『マーク・ボラン詩集 ボーン・トゥ・ブギ』シンコー・ミュージック,1988.6
- 『モリッシー詩集』シンコー・ミュージック, 1992.4
- 『詩人と女たち』チャールズ・ブコウスキー 河出書房新社,1992.8(のち文庫)
- 『くそったれ!少年時代』チャールズ・ブコウスキー 河出書房新社 1995.9(のち文庫)
- 『ブコウスキーの酔いどれ紀行』チャールズ・ブコウスキー 河出書房新社, 1995.12(のち文庫)
- 『メイキング・ラブ』リチャード・ローズ 文芸春秋, 1996.3
- 『死をポケットに入れて』チャールズ・ブコウスキー 河出書房新社,1999.2(のち文庫)
- 『ブコウスキー伝 飲んで書いて愛して』ハワード・スーンズ 河出書房新社, 2000.5
- 『ぼくは静かに揺れ動く』ハニフ・クレイシ アーティストハウス 2000.7
- 『ミッドナイト・オールデイ』ハニフ・クレイシ アーティストハウス 2001.10
- 『ブコウスキー・イン・ピクチャーズ』ハワード・スーンズ 河出書房新社, 2001.11
- 『グランドセントラル駅・冬』リー・ストリンガー 文藝春秋,2001.11
- 『パパは家出中』ハニフ・クレイシ アーティストハウス 2003.6
- 『天使はポケットに何も持っていない Modern & classic』ダン・ファンテ 河出書房新社 2004.7
- 『ボブ・ディラン全詩集 1962-2001』ソフトバンク,2005.11
- 『彼はぼくの恋人だった』ダグラス・A・マーティン 東京創元社 2007.8
外部リンク
そうめん
こんなの見つけました→http://www.110kz.com/001/
日齢 |
年齢換算 |
判断 |
1,000日 | 2歳8ヶ月と 27日前後 |
乳幼児ですね。 |
2,000日 | 5歳5ヶ月と 23日前後 |
2,000日台で小学校に入学します。 |
3,000日 | 8歳2ヵ月と 19日前後 |
小学校3年生ぐらい。 |
4,000日 | 10歳11ヶ月と 14日前後 |
小学校5年生ぐらい。 |
5,000日 | 13歳8ヶ月と 9日前後 |
5,000日台は、ほぼみんな中学生。 |
6,000日 | 16歳5ヶ月と 5日前後 |
6,000日台は高校生。 |
7,000日 | 19歳2ヵ月と 2日前後 |
7,000日台は大学生。 |
8,000日 | 21歳10ヶ月と 26日前後 |
大学卒業間近に8,000日を迎えます。この世代は新社会人。 |
9,000日 | 24歳7ヶ月と 22日前後 |
新米社会人。大人になるための最後の試練を積む時間です。 |
10,000日 | 27歳4ヶ月と 19日前後 |
やっと、一人前と言っても大丈夫になってきました。ここから大人の仲間入りです。万日元服式、盛大に祝いましょう。 |
11,000日 | 30歳1ヶ月と 12日前後 |
大人としてはまだ、ヒヨッコです。 |
12,000日 | 32歳10ヶ月と 8日前後 |
ヒヨッコと呼ぶわけにいかないでしょうが、まだまだかな。 |
13,000日 | 35歳7ヶ月と 5日前後 |
経験が役に立つようになってきたでしょうか。若いうちは、発想力で勝負。 |
14,000日 | 38歳4ヶ月と 1日前後 |
人生経験もだいぶつんできました。頼れる存在になってきたかな。 |
15,000日 | 41歳0ヶ月と 25日前後 |
人生の半分まできました。やっと半分。 |
16,000日 | 43歳9ヶ月と 22日前後 |
人生の長さからすれば、中堅といったところ。一番油がのって、おいしい時代です。 |
17,000日 | 46歳6ヶ月と 18日前後 |
まさに全盛期。趣味に仕事に家族サービスと貪欲にすごしましょう。 |
18,000日 | 49歳3ヶ月と 13日前後 |
ものを見る目や価値観ができてきた頃でしょうか。豊かな価値観で豊かな生活をしましょう。 |
19,000日 | 52歳0ヶ月と 8日前後 |
社会的にも認められるようになってきたかな。まだ、3分の2にも満たないのですから、思い上がらないようにね。 |
20,000日 | 54歳9ヶ月と 4日前後 |
2回目の万日記念。自分の子供が万日元服を迎える頃かな。伊能忠敬は56歳で蝦夷地の測量に出発しました。 |
21,000日 | 57歳5ヶ月と 30日前後 |
ぼちぼち、ベテランの域に達してきましたでしょうか。 |
22,000日 | 60歳2ヵ月と 26日前後 |
ここで定年を迎える人が多いでしょうか。これからは自由な時間。8,000日の自由時間ちょっと贅沢すぎるかな。 |
23,000日 | 62歳11ヶ月と 21日前後 |
旅に出てみましょう。世界一周、日本一周など1,000日ほど贅沢に時間を使って。 |
24,000日 | 65歳8ヶ月と 16日前後 |
まだ、あと6,000日もあるのですか。何をしましょうね。 |
25,000日 | 68歳5ヶ月と 12日前後 |
新しい趣味を持ってみましょうか。5,000日もあればたいていのことはものにできます。 |
26,000日 | 71歳2ヵ月と 9日前後 |
自由時間の半分まできました。やりのこしたことがあっても大丈夫。まだ時間はたっぷりあります。 |
27,000日 | 73歳11ヶ月と 3日前後 |
体のことを気遣う必要がでてきたかもしれません。 健康が一番。 |
28,000日 | 76歳7ヶ月と 29日前後 |
まだ、人生を振り返る時期ではありません。 |
29,000日 | 79歳4ヶ月と 26日前後 |
残り1,000日。今大学に入学しても、無事卒業できます。 |
30,000日 | 82歳1ヵ月と 19日前後 |
お疲れ様でした。ここまでこれたら合格です。どうせですから40,000日を目指してみましょう。 |
昨日からの出来事
昨日の出来事で、こんなことがありました。2つ以上の出来事がかさなると、天が背中をおしているように思います。
①これは、何日も前から、八町坂のにわとりたちを見ていて、「そうか!」と感じたことです。どうしても1羽の雌のニワトリだけがどこからか囲いの外にでていました。少しでも時間があるとどこからでるかを確認しようとみていました。すると、目の前で、網の下を器用にくぐって外にでました。そこに、たまたまガニ吉がつくっていた、針金のU字をたくさん打ち込んでこれで出ないはずだと思っていたら、また出てくる・・・?そしたら穴を3カ所も開けていて、そこからゆうゆうと出てきていました。そこも塞ぐとやっと出てこなくなりました。が、この辺から出られたはずだと、体当たりしたり、網をつついたりと、例の1羽は積極的です。そこで考えると、だめだとはなっから思っている他の3羽はあまり関心なさげです。一度たまたまかもしれないけど、成功した1羽は、いまでも出る気まんまんで、なんとかでようと試みています。いろいろな試みをしていうちに、なんらかの突破口が開けて、また、例の1羽は外に出るかもしれません。それが開けた穴から他の3羽が出れるかもしれません。はじめからだめだと思っていては、必ずダメです。その行動すら起きないのだから、でも、少しでも、いや全く可能性が無いように思えても、チャレンジし続ければ、それは、かなう可能性があります。というのが1つ目
②は、夕べなにげにTVのチャンネルを回していたら、大好きなオートバイが出てきました。その画像からもしかして「世界最速のインディアン」かなと思い、見ていると、その映画のようです。途中からでしたが、実話に基づいた映画ということで、感動しました。1967年にその人がつくった最高速の記録は未だに破られていないそうです。そのインディアンもオンボロ、その人もオンボロ(高齢)で、気合いと25年間の想いだけで、300km以上で走っていう映像はすごいです。これも、「なせばなるなさねばならぬ何事も」「やっちゃれないことはない、やらずにできるわけがない」の典型で、2つ目
③は、これは、少し毛色が違い、やはり、昨日のTVで、「東大応援団」というドキュメンタリーで。ひたすら「気合い」「気合い」の大学応援団の世界。絶叫にも似た、返事と、応援の練習風景は、怖いものを感じます。が。見終わると、感動が、人がこれだけ一生懸命に、必死に、なることの、すごさ。やるだけやって、かっこいい!これも気合いで自分のこれまでの枠を飛び出した例だと思います。
この3つが、何をしろと、なんの行動を起こせと、上のほうからのメッセージなのか・・・わかるような、わからないような、まだ、わかりたくないような・・・、でも、なんとなくわかります。今やる時だろうということが、今やらなくていつやるの?
これからも、上からのメッセージは、来続けるでしょう。ほんとに、それがうれしい。そのメッセージにしたがって、生きていこう。それがきっと役割であり、今生の目的。自分で人生を決めているようで、実は、決めてもらっていた。有り難い。「本当に自分が望んでいることをやるんだ」
ap bank フェスティバル 体験記 その1
少し遅れましたが、 ap bank フェスティバル に参加させてもらいました。その体験をつづります。
あの感動を、紙面にうまく表現できるかわかりませんが、記憶をたどりながら、その5まで、どうぞおつきあいください。
7月17日(金)午前9時前の名古屋行きANAに飛び乗る。余裕を持って出たので、大好きなレマン近くのうどんやで腹ごしらえ、その甲斐あって、すべり込みで、待ち時間0(ゼロ)で、機内へ。超近代的な名古屋空港から、ダッシュで、静岡はつま恋のの近隣の駅へ、シャトルバスにもスムーズに乗れて、会場へ。歩いて、歩いて、今回の出店場所へ。いよいよ、前夜祭が始まる。初めての、出店、先に入っていた5~7名?が、飛び回るように準備をしている。看板や中の備品も、ほぼ完璧!すごい!
初日から、ピーク時は、かなりのお客さんに並んでいただく。味はどうか?価格は?少しの心配はあったものの、それを吹き飛ばすお客さまの数で、こなすのに精一杯。けがもなく、初日が終わる。近くのお風呂にすべり込みセーフで、すっきり、さっぱり、そして宿泊先の公民館についたのは、12時を回っていた・・・と思う。(軽い記憶喪失状態)軽くコンビニの食料とビール・・・いや、初日はビールに行く前に、気絶したかのように眠りについた。明日は6時半には、公民館に迎えがくる。深い、深い、深ーい眠りをただいて、すっきり目覚めて、いざ、2日目(正式には、今日が、フェス初日)に出発!いよいよ本番、さてさて、嵐のスリーデイズの始まりです。